セピア色の写真から

これは、平成13年(2001年)2月3日に開かれた「旧校舎惜別の会」で上映された「セピア色の写真から」の一部を、矢の原会校内幹事の皆さまのご厚意により、ダイジェスト版で紹介するものです。なお、写真につけたコメントも、「旧校舎惜別の会」でのシナリオをもとに再構成しました。


一体ここはどこの田舎道かと思うような最初の一枚は、現在の松江南高の横を走る道の、正門より少し上ったあたりの開校前の姿です。「八重垣神社行き」の一畑バスには車掌さんが乗っていました。

 上のほうに少し白く見える道が八重垣街道(県道)で、左手の林のあたりが現在の正門になります。


 校庭の造成工事が始まっています。その左に見えるのは校歌に歌われた「松籟の松」です。向こうには、緑山の通信塔が見えています。

 そして松江南高校の最初の建物となる旧第2棟(南側の教室棟)の工事が始まったのは、昭和35年(1960年)11月のことです。


 昭和36年(1961年)4月の開校を目指して、冬場に突貫工事が進められました。なお、この写真をよく見ると、足場は木ですねえ。

昭和30年代に入って松江高校は生徒数が2,000人を超え、南北両校に分かれることになりました。
 写真は昭和36年(1961年)3月の松江高校での合格発表の光景ですが、手前が南高関係分、奥が北高関係分です。


昭和36年4月9日に行われた入学式で、晴れて279名の松江南高校第一期生が誕生しました。もっともこのとき新校舎はまだ完成しておらず、入学式は新生・松江北高校の講堂でした。

入学式から1週間後、新生北高のグランドで壮行会が開かれ、北高生に見送られて南高生徒・教職員は矢の原の地を目指しました。沿道の見送りは新大橋北詰まで延々と続いていたそうです。


南高到着後の記念すべき第1回全校集会は、当時唯一の建物である第2棟の南側で行われました。

そして1年後の昭和37(1962年)年4月5日に、出来たばかりの柔剣道場を会場として、県知事も出席しての開校記念式典が開かれました。これはそのときのスナップです。


2年目の1学期に第2棟と第1棟の間に図書館棟(右の2階建ての建物)が竣工しました。
 この図書館棟は、後に記念館が竣工し図書館がそちらに移ると、補習科や社会科教室・準備室として使われ、昭和50年以降最近までは部室棟として利用されるという数奇な運命をたどりました。

昭和38年には、玄関前から正門にかけての植栽も行われ、ようやく学校としての顔が整ってきました。
なお、この前の県道が舗装されたのはさらに5年後の昭和43年のことだそうです。


昭和38年(1963年)の春に、ようやく第1棟の西半分と体育館が竣工しました。ただ、その周囲はご覧のとおりの「崖崩れ状態」でした。

昭和38年は宍道湖も凍結するほどの寒波と豪雪があった年でもありました。

そして明けて昭和39年(1964年)3月7日に第1回の卒業式が開催されました。これは松江南高校同窓会誕生の瞬間でもありました。



向こうに見えるのは茶臼山。昭和40年代初期の写真です。 

それがその後はご覧の通り。


昭和42年(1967年)1月には、待望(?)の食堂が完成しました。

これはそれから32年後の平成11年(1999年)1月の、校舎改築事業のための解体直前の食堂の写真です。この風景、見覚えがありませんか?


そして食堂にあった売店です。パンや飲み物が売られていました。

ここでもう一度時計の針を30年ほど戻します。寄宿舎の「青雲寮」が完成したのは昭和44年(1969年)夏のことでした。
 なお、この年は理数科第1期生45名を迎えた年でもありました。


南高の思い出といえば、体育祭をあげる人も多いでしょう。松江南高の体育祭は、昭和40年代には既に市内随一の規模と内容を誇っていました。
ただ、このファイアーストームも、周辺の住宅地化とダイオキシン問題で平成9年(1997年)を最後に姿を消したそうです。

昭和41年(1966年)の体育祭応援風景です。この頃の体育祭は、秋の文化祭とは別に1学期に開催されていました。


同じ年の「松籟の松」をバックにした応援風景です。ビートルズらしきバンドメンバーの顔が毛沢東(左端)や佐藤栄作(ドラム)というのは時代を感じさせます。

昭和49年(1974年)の応援風景です。この頃にはデコレーションはベニヤ36枚の平面に統一されていました。


応援の桟敷席を竹を組む技術は、毎年上級生から下級生に引き継がれていきました。

昭和48年(1973年)には、グランド北側にコンクリート製のスタンドが出来ましたが、昭和60年代初めの校庭拡張に伴って姿を消します。


昭和41年(1966年)に始まった1年時の大山キャンプは、南高生活のもう一つの大きな思い出でしょう。

そして大山キャンプといえば烏ヶ山への登山です。ただ、写真のような好天ばかりではなかったようです


大山キャンプのフィナーレを飾るキャンプ・ファイアーでの一コマ。なお、平成10年(1998年)の38期生からは、入学早々4月の三瓶研修へと代わりました。

昭和38年度から希望者を対象に始まった寒稽古を覚えている人も多いと思いますが、校舎改築事業に伴う柔剣道場の解体により、36期生をもってその歴史に幕が閉じられました。
 なお、37期生からは、代わって大山スキー宿泊研修が始まったそうです。


 昭和45年には、開校10周年記念事業として、図書館、ホール、会議室、和室などを備えた記念館が竣工しました。
 写真は体育館で開かれた開校10周年記念式です。 



南高の変遷を航空写真で眺めてみましょう。最初の一枚は昭和38年(1963年)、2期生の皆さんによる人文字です。それにしても、スゴイところに建っていますね。

昭和47年(1972年)になると第2棟の裏山は既になく、住宅地の造成が進んでいます。また、正門前には池が二つ残っています。


昭和61年(1986年)です。第3棟や新体育館が出来ているほか、二つのグランドの高さが同じになり、テニスコートも整備されています。なお、第3棟建設に伴ってプレハブ校舎が移転したのには気づきましたか?

校舎改築事業直前の平成10年(1998年)の空撮です。正門前の池と林が姿を消し、宅地化が進んでいます。また、昇降棟が新しくなり、グランドも北側(写真では左)に少し拡張されています。


別アングルから、校舎改築事業が始まった平成11年(1999年)の写真です。工事中の新第2体育館、特別教室棟などが見えます。なお、総合運動公園はこんなに近いのです。

平成11年(1999年)の中庭の風景です。中庭の整備は様々な期の卒業記念事業として行われてきました。


中庭にあった池は、第2期生の卒業記念としてつくられました。

毎年中秋の名月に近い時期、周辺自治会の皆さんを招いて「きらめき交流事業」と題する音楽と演劇の夕べも開かれていました。


多くの卒業生によって整備され、様々な形で憩いの場になっていた中庭も、校舎改築事業の仮設教室建設のために平成11年秋に姿を消しました。
そして向こうには、今はもう姿を消した「廊下のない校舎」旧第1棟も見えています。

平成12年(2000年)春に竣工した新第2体育館と特別教室棟です。
そして校舎改築事業が完成し、新しい松江南高校がその全容を現すのは平成14年(2002年)春のことです。